「黄表紙」の先駆者・恋川春町の生涯
蔦重をめぐる人物とキーワード⑲
■〝副業〟で江戸の出版文化を変えた
恋川春町は1744(延享元)年、紀州田辺藩士・桑島家の子として生まれ、のちに倉橋家の養子となった。本名は倉橋格(くらはしいたる)。駿河小島藩の藩士として仕え、江戸の小石川春日町にあった藩邸で暮らした。
御留守添役、側用人、留守居役など藩の要職を歴任する一方で、鳥山石燕(とりやませきえん)に師事して絵を学んだ(『戯作者撰集』)。一説には、武士としての収入だけでは生活が苦しかったため、現代でいう副業として絵を学び始めたともいわれている。勝川春章の作品も手本とし、その「春章」と自らの居住地・小石川春日町にちなみ、「恋川春町」という筆名を名乗るようになった。
春町の戯作界への本格的な参入は1773(安永2)年、朋誠堂喜三二による洒落本『当世風俗通』の挿絵を担当したことに始まる。
彼にとって転機となったのは、1775(安永4)年の『金々先生栄花夢』だ。この作品は、栄華を求めて江戸に出た金村屋金兵衛という若者が、旅の途中でうたた寝をした間に見た夢を通じて、一生の楽しみのはかなさを知る姿を描いている。
この作品は金銭至上主義を鋭く風刺した内容で、江戸の庶民から熱狂的な支持を受けた。春町が自ら作画と執筆の双方を手がけた意欲作であり、絵を主軸に据えた構成も画期的だった。後に「黄表紙」と呼ばれる江戸時代を代表する出版ジャンルの先駆けとして、高く評価されている。
以降も『高慢斎行脚日記』『三升増鱗祖』『無益委記』などを次々と刊行。春町の活躍は、黄表紙の黄金時代を築いた立役者として江戸文化史に記録されている。また、天明年間(1781~1789年)には狂歌師「酒上不埒」としても活動。朋誠堂喜三二らとともに「天明狂歌」ブームを牽引し、絵師・戯作者・狂歌師という三つの顔で、江戸文壇で存在感を示した。
恋川春町の作風の特徴は、鋭い社会風刺にある。武士という立場を保ちつつ庶民の視点も併せ持つ春町は、政治の矛盾や人々の欲望を、直接的な言及を避けながらも巧みな比喩と笑いを交えて描写した。世相に潜む問題意識を読み手に自然と意識させる筆致は、まさに春町の真骨頂といえる。
黄表紙というジャンルを通じて、彼は江戸時代の出版文化に革新をもたらした。文字と絵を効果的に組み合わせた表現手法は、現代のマンガの源流とする見方もある。